◆「バカの壁」以来、超有名になられた養老孟司さんが書かれた「無思想の発見」。
小川洋子さんが書かれて映画化された「博士の愛した数式」。
生命学者の柳沢桂子さんの「心訳 般若心経」。
作家の新井満さんの「自由訳 般若心経」。
これらの最新の4作品に触発されたので、持論であるゼロの発見と般若心経の関連を改めて「見える化」しました。

◆数学的なゼロの概念の歴史は@しるし、A数字、B数の3つの段階があり、それらを全てを完成したのはインドといわれています。この三つの性質に関しては「博士の愛した数式」の中でも、文学的に分かりやすく説明されていました。多分、数学者で作家でもある藤原正彦さんに聞いて正確を期して書かれたのでしょう。そして、『1-1=0』という数式が美しいと博士に言わせています。

◆養老氏は仏教哲学の真髄に気づかれて「無思想の発見」では第5章 セロの発見 第6章 無思想の由来などを通じて般若心経はゼロの哲学であるとの見解に至っています。しかし、残念ながらゼロの意味と空と無については世間の常識範囲に終わっています。

◆さて、ここからが本論になります。数学上のゼロ記号には@ものさしの端、スタートの基準点を表す「しるし」としてのゼロ記号、A二十二、二百二、を22、202と数字で表すときに十の位には何もないという空位を表す数字としてのゼロ記号、BN−N=0のように数から数を引いて何も残らないとしたような場合の数としてのゼロ記号 以上三つの性質があります。インド以外においてもゼロ記号の使用は古く歴史上に散見するのですが、三つの性質を揃えて完成したのはインドでした。

◆孫悟空が大活躍する「西遊記」は中国の三蔵法師がインドに仏教経典を求めて旅をした物語です。元のサンスクリット語の経典を漢語に翻訳して出来たものとして「般若心経」を我々は良く目にする訳です。中央アジアから南下したアーリア人が使用していたサンスクリット語の翻訳には当時も苦労があったと思われますが、最近の研究からすると、否定を意味する「na」を不と無でしか表現しなかったのは間違いで、もう一つ「非」=非ずで表現した方が適切と思われる箇所があります。
『是故空中 無色 無受想行識から始まって無智亦無得』までの頭に付く「無」は全て「非」に変換されるべきです。


◆その理由は以下のとおりです。そもそも般若心経の存在意義は何か?他でも述べていますように、それは大乗仏教派の宣伝文(コピー)なのです。それを写経することによって布教をしたわけですが、従来の小乗仏教派への批判文でもあったのです。
◆簡単に言って小乗と大乗の違いは何か?お坊さんになって修行を積まないと悟れないとするのが小乗で、在家のままでも悟れるというのが大乗の教えと通常は言います。しかし、もっと根本のところの違いを認識する必要があります。小乗は有か無かの二元論であるのに対して、大乗は有に非ず、しかも無に非ずの存在として「空」の哲学を提示しているのです。従って日本へ伝来した大乗仏教の考え方の基本は今でいう弁証法に他ならないのです。

◆夜空に一杯の星の輝きはまさに色そのものです。この星空を有としましょう。昼間は太陽に照らされてその星空は見えなくなり青空のみです。この青空を無としましょう。星空も青空もまさに「色」の世界です。しかし、夜も昼も見上げている天空の本質は星空の有に非ず、青空の無に非ず、「空」としか言いようがないのです。『色不異空 空不異色 色即是空 空即是色』とはこのことです。参照:釈迦の悟り

◆ゼロの概念も実は二重の否定で成り立っています。プラス(正数)に非ずしてマイナス(負数)に非ずの存在はゼロに行き着くしかありません。
◆インドにおいて釈迦が仏教を説き、竜樹が大乗仏教を確立してから「空=ゼロの発想」が定着し、やがて数学の世界にゼロの発見をもたらしたとの理解ができます。 参照:ゼロの発見物語