左画面に「般若心経」の新改訳を提示いたします。
大きくは起承転結の四つで構成されていますが、更に九段に分けています。

 三段目3)の不増不減のあとに「是空法 非過去 非未来 非現在」が追加されていますが、これは鳩摩羅什の訳に従ったものです。

 四段目4)の「是故空中」以下の文字「」にご注目下さい。旧訳といわれる鳩摩羅什も新訳といわれる玄奘三蔵もここは「無」と訳しましたが、今から見るといずれも誤訳であり、ここは「」と訳すべきです。
 「〜にあらず」「〜にとらわれず」 を意味する「」こそ大乗仏教のエッセンスであり、有に非ず、無に非ず、二重否定の空哲学のキーワードとなるのです。それはまた、仏教の誕生したインドの地においてこそゼロの発見が成功した歴史的事実とも関連しますので、なおさら重要な視点となるでしょう。

正数(プラス)に非ず、負数(マイナス)に非ず、両方を同時に成り立たせるものとして数学上ではゼロが存在しているのですから、「空」が「0」に繋がるのです。そして、陥りやすい「空」と「無」の混同は避けねばなりません。

空哲学とゼロの概念については「こま回し」をイメージすると分かり易いでしょう。
  1)動いていない静の状態
  2)最初はいかにもぐるぐると回って見える動の状態
  3)一点に止まって遠くから見ると静止しているように見えるが、
    近くで見ると自転していて動いている状態
 この3)の状態を「とろむ」(瀞む)と言うそうです。動に非ず、静に非ず、両方を含んだ状態の「とろむ」が「空」=「ゼロ」のイメージに繋がります。

「色不異空 空不異色」=「いろとそらの段階」:
見上げる空をイメージすると 1)太陽が西に沈んだ後、夜の星空は満天の星に彩られて、まさに「色」(いろ)の世界です。やがて2)朝になって太陽が出て晴れれば、昼間は青「空(そら)」となります。ここまでが「色不異空」の一番分かりやすい意味です。「空不異色」は今度は2)昼から1)夜に変化する状態です。これが認識できれば次の段階へ進めます。

「色即是空 空即是色」=「くうとしきの段階」:
即ち次の「色即是空 空即是色」はより高いレベルになります。実は星空も青空も本質は同じ宇宙なのだという意味です。この次元での「色」(しき)は星空(そら)も青空(そら)も両方を含んでいると解釈されます。その「色」が共に「空」(くう)であるというのです。この場合の「空」は「そら」ではなく「くう」と読みます。宇宙ないしゼロの本質を持った「空哲学」で言う場合の「空(くう)」のレベルです。この段階の「色」は「しき」と読んで、現象という意味にレベルアップします。ですから以降は「色」はこの意味で「しき」となります。

また「無常」の分かりやすい意味も 太陽が有る青空か、太陽の無い星空か、どちらも実態は宇宙であって、時間によって常に同じでは無いという説明ができると思われます。決して無常が無情や空虚の方へと解釈が流れて、「むなしい」といったマイナスイメージで考えたりしないようにすべきです。本当は「無常」ではなく「非常」の方が適訳であったかも知れませんね。「常に同じ状態に非ず」「変化している

サンスクリット語の「na」はNotNonと同様に「非・不・無」といった否定形の3要素を持っています。実は鳩摩羅什の訳には一部に「非」の文字が見られますが、西遊記でも有名な玄奘三蔵は一切「非」を無視しています。これは非常識で残念無念なことです。しかも、歴史的には新訳とされた玄奘の般若心経の方が広まり、日本へ伝来したものは玄奘訳の方でした。

私たちは現在の視点から一方では原文であるサンスクリット語に遡って、しかも一方では哲学・数学や現代物理学の観点からも見直しをして、温故知新をしながら、創造性を豊かにしていかなければならないと思います。仏教の再生・活性化をこんな身近なところから始めて行くのはどうでしょうか?

この項、藤倉啓次郎著「般若心経を解く」P75にヒントを頂いた。
『この段では多数の要素を「無」で否定しているが、私は「無」でなく「非」のほうが妥当と思う。弁証法では、ABが対立していると、Aに非ずBに非ずと否定するのが普通だからである。「無」としたのでは対立感が薄くなる。そのためか、他にはここを弁証法と解釈するのも見当たらない。それから「無」と否定したのでは空=無のような印象を与える恐れがある。「空」は決して「無」ではない。』

 それまでの小乗派の有か無かの二元論に対して弁証法的に止揚した「空」哲学を提示して、皆が悟りに達することができる(大乗)という謳い文句が心咒(真言)の真髄なのです。
最後の真言『ギャーテー、ギャーテー、パラギャーテー、パラソーギャーテー、ボジソハカ』
の個人的な訳を提示しておきます。
わたしは渡った、あなたも渡った、みんな渡った、バンザイ

「一人称、二人称、三人称」が全てゴールに達したとういうイメージですね。
これは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」(ビートたけしのギャグ?)に似ています。それは日本人の精神的特質なのかもしれませんね。


<2009年3月に以下を追加しました>
 ネット上で “非苦集滅道”を検索したところ「浄土生無生論」 というが見つかりました。 その「初一 真法界門」 の中間辺りに下記の経文が見つかりました。 左のフレームに載せている新改約とアワセてご覧ください。

『 非心非空。非地水火風。非眼耳鼻舌身意。非色聲香味觸法。非眼界乃至非意識界。非無明乃至非老死。非無明盡乃至非老死盡。非苦集滅道。非智非得。非檀那乃至非般剌若。非怛答阿羯。非阿羅訶。非三藐三菩。非常樂我淨。 』 

般若心経のある箇所にほぼカサネられることは直ぐに分かります。我々が通常目にする般若心経は非が「無」になっているわけですが、本来の内容からしてみて、どちらがぴったりするかをキソイますと、やはり「非」の方に軍配が上がります。

サンスクリット語の「Na」の否定形は「無・不・非」の三種類に使い分けて翻訳するべきと書きましたが、中国でも実は正しく「非」を使用して翻訳されていたことが判るのです。 今回はネット検索の有効性を目の当たりにすることができました。これは他山の石として、後生大事にしている「般若心経」は、この機会に新たにソロエ直すことにいたしましょう。(千々松健)

*「アワセ・カサネ・キソイ・ソロエ」は松岡正剛の編集工学にヒントを得たものですが、元来は日本独自の折り紙の基本的方法に他ならないようです。

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